「仏教」と神の道

日本人にも馴染み深い「般若心経」に書かれたお経には、要約すると「全ては”空”であり実体はなく、こだわる必要がないものだから、諦めて仏の世界に向かいなさい」という教えが書かれています。

 

 

「諦める」とは、「明らかに見る」の意で「真実だから受け入れるしかない」という境地でもあります。

 

この世は「仮初」のものであり、だからこそ現世を唯一絶対と考えて囚われ続けてはいけませんよ、という内容です。

 

 

 

これは日月神示にいう「神の道」に近い考え方であり、仏教の「空」は「◯」と言い換えることもできます。

 

神示にある「◉」の真ん中の「・」は「ム(無)」であり、対する「◯」が「ウ(有)」とすれば、「無の境地」を志す仏教は「神の道」そのものです。

 

 

日月神示では、「五つの岩戸閉じ」に「仏魔が渡ってきた」ことを含み、また仏教は「救うべき宗教」として語られています。

 

ただ「神の道」を実践してきた日本人がかつて零落し、それでも「仏教」の中に神の道のエッセンスを見出したことで、現代にもその考えが伝わり、古き良き教えを残すことができたのかもしれません。

「いい人」が不幸になる理由

「神に仇なす者たち」は、神の性質が強く現れている人ほど、陥れようとしてつけ狙う傾向があります。

 

 

「才能」や人格としての優秀さを持った人ほど悪い人に利用されやすいのは、その一つの現象に過ぎません。

 

マイケル・ジャクソンやエルビス・プレスリーが、銭ゲバやマフィアに漬け込まれて身を滅ぼしたように見えますが、それを単なる「不運」に見せようとするのが「悪神」という存在です。

 

 

 

「なぜ、あんな良さそうな人が」という事象ほど、「魔」の存在の関与を疑うべきです。

 

しかし、この唯物論の世の中では「霊」の話をすると、話の発端や因果関係そのものを疑われてしまうのです。

 

 

これも「神に仇なす者」のレトリックなのですが、今の世ではこのことを指摘するだけでもリスクが高いと言わざるを得ません。

若者に伝えたいこと

そろそろ春休みが終わりそうだと知り、今の若者たち、特に学生に伝えられるとしたら、私は何が言えるだろうかと、ぼんやり考えていました。

 

 

それはもう、自分の学歴とか経歴を気にしすぎず、むしろ何をしていても自分の経験や、身についたことだけを大事にすることだと言いたいです。

 

 

良い大学を出ても、世の中にバカはたくさんいます。

 

人間として大切なのは、どんな状況でも自分の力で「幸せ」になれる能力があるかどうかです。

 

 

だから、進学先を間違えてしまったとか、学校に行けなくなってしまったとか、そんなことでクヨクヨするのは勿体ないと思います。

 

むしろ学校だとか就職だとか、そんな経歴があってもなくても同じような世の中を作ってやる、くらいの気概のある大人になって欲しいです。

 

 

また、私たち大人はむしろ率先してそういう世の中にしていくべきだと思います。

 

肩書きなどなくとも「こういう大人になりたい」と子供たちに思わせられるような、そんな大人でありたいものです。

「過ち」と霊界

 

この図は、以前「招神万来」の日月神示による霊界解説で使用したものです。

 

「副守護神」から流れる霊流は「外流」が正解であって、この図の表記は間違いです。

 

 

私たちは時々、すごく嫌な気分になったり、急にカッとなったりすることがありますが、その場合は「外流」の霊的干渉を受けていると考えて良いと思います。

 

それは「邪気」とか魑魅魍魎の類の影響であるケースもありますが、霊界の自分と「幽界」の霊人との交流によって霊障がもたらされることが多いようです。

 

 

そして、その迷惑な霊障の原因には、浮かばれぬ「ご先祖様」が関わっている可能性が非常に高いのです。

 

と言うのも、未だ低い霊界に属するご先祖様は、子孫の肉体を借りて「修行」する時、「悪い癖」も現世で再現してしまうのです。

 

 

「自分らしくない失敗」が起こるとしたら、ご先祖が生前の過ちを克服しようとして、子孫の身を借りて「学び」を得ようとしている最中なのだと思います。

 

 

子孫である私たちは、目の前の「過ち」から逃れることなく、きちんと向かい合い乗り越えることで、ご先祖は悪い「癖」を現世の身を借りて直すことができ、より高い霊界に上がっていけるようになるのです。

 

高い霊界とは「天国」のことであり、それが神の道では「供養」に当たります。

日本の「良心」

今「コンプライアンス」は、人々が失った「道徳観」を埋め合わせる形で、社会の維持に貢献しているのだと思います。

 

 

確かに、何でもかんでも「ルール」にしなければならない環境は、息苦しく肩身が狭い世界です。

 

そもそも、人の「善悪」が個人の判断を離れ、「集団」という大きな枠組みの中で「同調圧力」にするしか機能できなくなったのが問題です。

 

 

今の若い人たちは、押しつけがましい「コンプライアンス」の世界で、息苦しくても何とか順応しようと必死なのだと思います。

 

ただ、社会に押しつけられたとはいえ、現象面で見れば「規則正しい」行動を習慣化できているのには変わりありません。

 

 

「正しい」習慣が「何故なのか」という理由がわからなければ、これを「押しつけられている」と感じることもあるでしょう。

 

問題はそこであって、「正しさ」の理由がわかれば、規則正しすぎる行動様式も窮屈なだけのものではなく、実際に社会のためになる知見であることに気がつくはずです。

 

 

今の若い人たちにとって、「形から入っている」ように感じるでしょうが、気持ちだけあってやらないよりも、身についた習慣の方が役に立つこともあると思います。

神様の「目線」

神様は「天から見ておられる」とよく言いますが、神様は人間の心の奥底におられて、その人の心の動きを裏の部分まで見ておられるように、私には思えます。

 

だから「頭で考える分には良い」とか「人に見られなきゃ良い」と考えていても、その心根すら見透かされていることを知っていた方がよいかもしれません。

 

 

実は、その隣にはご先祖様や亡くなった家族もいたりして、こうした方々にいつも恥ずかしくない心でいたいものです。

 

おそらく、人が持つべき尺度は「良いか悪いか」ではないのだと思います。

 

 

少なくとも、「恥ずかしくないか」という部分で自分と向き合ってみたら、かなり深刻な癖があることに気づきます。

 

人生とは、この「癖」と向き合う時間そのものなのかもしれません。

「茜色」の空

先日リリースされた、桑田佳祐さんの「人誑し」を聴いて気づいたことがあります。

 

歌詞に「男のジェラシー渦巻く世界、茜色に染めるのは今でしょう‼︎」というフレーズがあります。

 

「茜色の空」は通常、表現としてみれば「夕暮れ」です。

 

「朝焼け」を意味するなら、「赤紫色」とか、「瑠璃色」という表現の方が近い気がします。

 

主題歌となるアニメ「あかね噺」に掛けているのでしょうが、「夜明け」を表現するのに「茜色」という言葉が使われていることを、もう少し深読みしてみたいと思います。

 

 

今、おそらく最も「夕暮れ」時を感じていて世の「日陰者」にされているのは、自分の才能を持ってチートなしで成功しようと思っている若い人、女性一般、子供たち全員なのかもしれません。

 

 

そうした「茜色の者たち」で夜を切り拓くことを、「今でしょう‼︎」と歌っておられるのではないでしょうか。

 

近年になく、勢いのある曲を桑田さんが作られたのは、こうした願いが込められているのかもしれません。

「大祓詞」

神道の「大祓詞」は、「天の益人」である日本人が、あらゆる罪を冒す時、神社を建て大幣を作り、祝詞を神に捧げよ、さすれば罪は祓い清められるであろう、という内容が述べられています。

 

 

私たちは、悪意がなくてもやらかしてしまいますし、そうした過ちを繰り返して生きていきます。

 

人を傷つけてしまったり、誰かに迷惑をかけたことの「罪」は、時が経つにつれ忘れ去られたり、いつの間にかその人に許されることで、消えてなくなっていきます。

 

 

「過去の行い」が消え去る時、人の冒した「罪」が自然と消えていくことは、速佐須良姫命の「さすらい失わせる」御神業の一つとも考えられます。

 

 

水に流す」という言葉がありますが、時と共に人が過去を「忘れる」という行為も「祓い清め」になるのであれば、私たちが過去の出来事を「なかったこと」にしたりしてあげるのも、立派な「祓い清め」になるのかもしれません。

トップに戻る