「天の導き」の世界

「誠の信仰」とは、宇宙の働きに身を委ね、そこに「神」を感じ、眼前に起こる出来事を適宜処理していく、その「生き方」に全てがあるのだと思います。

日月神示「春の巻・第二十帖」では、こう述べられています。

 

「任せ切ったと申して懐手ふところでならん、自力は大切じゃ、他力の中の自力じゃ、まつりは常住坐臥じょうじゅうざがにあるぞ、拝むばかりではならん、拝むまつりはまつりの型じゃ、型から入るのが入り易いが、この程度の境地では戒律要るぞ、戒律の世界にいつ迄も居てはならん、型に囚われてはならん、十年経てば十才になるぞ、恩を知らねばならん、恩に報いねばならんぞ、人民は天地の恩忘れているから喜び少ないのじゃ、ものの順序わきまえねばならん、悪平等ならん、政治や経済は裏、二義的なもの」

 

私たち人間に「先」は見えないので、わからないがゆえに「先回り」して物事を考えがちです。

ところが、この「計算」が物事の「順序」を乱してしまい、また「他力」の存在を忘れがちになる一つの原因と言えます。

 

スピリチュアルに関心のある方なら、目の前に起こる事象に「天からのメッセージ」を見出し、インスピレーションを優先して行動する習慣が身についているかもしれません。

そうした「非言語的」でもある行動習慣は「惟神(かんながら)」に準ずるとも言え、時々の「気分」を読み取ることで、「天の導き」を受けやすくなる方法でもあります。

 

しかし、スピリチュアリストが陥りやすい部分として、「自然の流れ」を重視し「気分」を優先するあまり、自分の心身の状態に対して「無反省」の行動を取りがちです。

要は「言葉」と「行動」と「心」が全て一致してこそ「天の導き」に準ずるのであって、どこかに歪みがあればメッセージを曲げて受け取ってしまう恐れがあるのです。

 

もし、「天の導き」に対して間違った受け取り方をしてしまえば、スピリチュアリストは容易に「幽界」に連れ去られてしまいます。

ここで波長を「神界」に定め、また戻すためには、自分の「心口意」を逐一見直していく心構えが大切になります。

 

「言葉」と「行動」は、頭で考えて何とかできるものですが、「心」は注意深く観察していなければ自分でもわからないものです。

ここで「心」のあり方を読み違えてしまうと、「我とわからない我」に騙されて「心口意」の乱れに繋がっていきます。

 

常に「自己反省」なくして、「惟神」は成り立ちません。

また随時「心口意」の状態を見直すことが「祓い清め」であり、その和合一致を求めることこそ「神の道」と言えるのです。

 

これが出来て「天の導き」を素直に受け入れ、正しい道を進むことができます。

「自然に生きる」というのは、現代社会では難しいものですが、「天の導き」を受けるにも「仕組み」があることを理解すれば、大して迷うことはないはずです。

日月神示の「真意」

日月神示「扶桑の巻・第十三帖」に、こうあります。

三千年に一度と言う、二度とない結構な時が巡り来ているのであるぞ(中略)

内にあるものを磨けば、外から響くものも磨かれた、穢れ無いものとなるのじゃ、中の自分を掃除しないで居ると、いつまで経っても、岩戸が開けていても岩戸は開けん

 

日月神示は、しばしば「予言の書」という読み方をされてきました。

それ以上に、1945年から1961年までの間に「天の岩戸」が開いたことで、おそらく時を待たずに「地の岩戸」を開くことは、人間次第で可能だったのではないでしょうか。

 

「岩戸」にはいつでも開けるという性質があるのだとしたら、「心構え次第」という面が多分にあるのかもしれません。

神示がこの「心得」に万語を割いていることから、「身魂磨き」の実践をさし置いて「岩戸開き」の方法はないのだと思います。

 

ただし、人間にとって「変化」は無意識に避けたい性質があり、まして自分自身の「反省」や「改心」を意識的に行うことが難しいのは、容易に想像できます。

だからこそ、天之日月神様は「天地の引き上げ」の執行時期を伸ばしに延ばし、今日の状況に至ったと考えられるのです。

 

確かに、現在の世界を取り巻く状況は、忿懣やるかたないものに思えるかもしれません。

ただ、今あるものが「最善」である限り「改善」のきっかけは起こりえず、「悪」があるからこそ「改善」が促されるとも言えます。

 

台風や地震が「悪」とは見做されないように、「悪」とは社会に生ずる自然の摂理であり、後に乗り越えられるために存在するからこそ、その働きを憎むべきではありません。

日月神示とは、「宇宙」こそ「神」の顕れであると説くことで、「善悪」全ての事象を「汎神論」に内包させ、「悪」が悪とならない「善」の世界を切り拓く教えであるのだと思います。

 

地表を覆う「大木」はいずれ枯れ、朽ちて尽き果てるからこそ、その跡に新しい草木が芽吹きます

もし大樹が「永遠」に常緑であったならば、かの地に他の生命が繁栄するきっかけは生まれないでしょう。

 

だからこそ、自ら「滅び」の運命に従い、新たな若木が生え揃う契機となってくれることで、むしろ朽ちゆく老木には感謝の意を向けるべきなのです。

そう考えるのは難しいかもしれませんが、人間の時間軸でものを見るのではなく、「永遠の立場」から俯瞰すれば、今の状況が理解しやすくなるかもしれません。

「大掃除」終了

どうも7月29日「水瓶座満月」あたりで、私の波長が切り替わっていたようです。

その頃、私は「人が死ぬ時はこんな感じなんだろうな」と思って悶絶していたのですが、この時期の切り替わりを実感するには、やはり数日の時間を要したのでしょう。

 

「死」を見届ける必要があったのは、「悪の身魂」となっていた私自身、また「過去の自分」なのだと思います。

そして、この「過去の自分」が浄化される苦しみこそ、「人間の死」の感覚に近いものだったのかもしれません。

 

思えば5月中旬から2ヶ月以上、「心の大掃除」に取り掛かっていた訳ですが、どれほど自分の生き方が心を傷つけ「魂」を汚すものだったのか、腹の底から思い知る時間だったと言えます。

けれど、世の流れがそうであった部分もあり、全て「自分」が悪いとも言い切れないのも事実です。

 

ただし今は、過去の経験が「自分に必要なものだった」理由が何となくわかりますし、全てが「神」の胎の中で起きていたことなのだとしたら、それもまた神から給わった「経験」だったのでしょう。

もちろん散々な目には遭いましたが、そんなことにクヨクヨせず、きちんと「乗り越えた」ことを大事に受け止めて「これから」を生きるべきなのだと思います。

 

「神」の働きは、常に「中心」と「渦」で成り立つということが、日月神示には示されています。

この「中心」にあるのが「火・日(・)」であり、その周りを回る「渦」が「水・月(◯)」となり、あらゆる存在はこの「原型」に則っていることを教えてくれます。

 

例えば「宇宙」がビッグバンに始まる姿を未だ保ち続けているように、無数の「星団」が散りばめられた中に「星系」の星々が数えきれないほど存在し、私たちの住む「太陽系」があります。

これを物質の世界だけでなく「霊の世界」にも当てはめてみると、私たちの「宇宙」も一つの「」であり、その他にも数多の「星系」、「星団」が存在するでしょう。

そして、その「宇宙」すら「一つ」ではないのかもしれません。

 

そう考えると、私たちを取り巻く世界は想像以上のスケールをもつ可能性があります。

そんな「宇宙」の中で、改めて私たち人間の立場を見つめてみると、そうした「神」の働きの中に「自我」を持つことの意味は計り知れないように思います。

 

少なくとも私が言えることは、人間は誰しも「卑下」される立場にはないこと、また「つまらないもの」として捉えるには、あまりに勿体なさすぎるということです。

けれど、これまでの「世」も今に至るまで、こうした考えを持つことが難しい時代が続きました。

 

だからこそ、人々は自分自身の「尊さ」に気づき、その価値を尊重し合う生き方こそが大事であることを知る必要があります。

そして、そうしたことが「前提」の世にしていくために、私はこれから「一助」となっていきたい、そう思うのです。

「立体」について

日月神示では、「立体」の世界を捉えることについて、何となく伺い知ることができる文節があります。

「月光の巻・第十七帖」に、こうあります。

そなたの仕事は思い付き結構であるが、神の御意志を頂かねば成就せん、神と申しても、そなたが勝手に決めた神や、宗教で固めた制限された神ではないぞ、分かっただけでは駄目ぞ、行じねばならん、生活しなければならん、芸術しなければならん

 

「勝手に決めた神」や「制限された神」とは、神道の「」や仏教の「」、数多の宗教や神話の「神々」を想定していると考えられ、かの上位存在への「信仰」を通して「神の御意志」を伺うことができる訳ではない、という意味ではないでしょうか。

「神の御意志」を頂かねば仕事が成就しないことの真意は、通常の「神信心」のみで上手くいくとは限らない、そう解釈できます。

 

つまり「時の神」や「現宇宙の神=人間」、また「大神の御顕現」としての「宇宙」の働きを無視して自身の仕事が成功することはありえない、という意味に取れます。

そして、「神信心」のみでは「心」に念じるだけになりかねず、実際に「芸術」を生み出すには、自分の「頭」と「手」を動かさなければなりません。

ゆえに、「仕事」の成功は常日頃の心構えと「実践」から生まれる、そう仰っておられるように思います。

 

「神の道」とは「立体」を通り、さらに「複立体」「複々立体」と、超立体の世界へ至る信仰の道とされます。

こう説明すると、何となく難しく感じられるかもしれませんが、一帖前の「月光の巻・第十六帖」では、神の道を「立体」として捉えやすくなる一節があります。

 

「現われの五十柱の陰の、隠れた九柱、心して大切せよ、真直に真上に神を頂くと申す事は、上ばかりではないぞ、真下にも横にも前後にも、立体360度に真直ぐに、神を頂かねばならんと言う事ぞ、神人交流の第一歩」

 

簡単に説明すると、「五十連(いつら・五十柱)」には「火(カ・ヤ)」の神と「水(ミ・ワ)」の二柱がおられ、「火・ヤ」の神が「」を、「水・ワ」の神が「」に対応し、この二柱が「火水(カミ)」の原型となられます。

「天」を司る「火」の「五十連」と「地」を司る「水」の「五十連」を合わせて、二柱は「百綱(ももつな)」となり、かの一つとなられた神を「大日月(地)大神」と仰せられるのです。

 

ゆえに、先の「勝手に決めた神」や「制限された神」という、人間から見て一般的な「神々」は、「大日月大神」の御顕現(◯)の一部であり、さらにこの「宇宙」や、大神の御霊から分けられた「人間」もまた、二柱の「元つ神」から派生した存在と考えることができます。

 

「夏の巻・第二十帖」には、「人民の智の中に現れて来る時は、もはや大神では無いぞ、神であるぞ、原因の原因は中々見当とれんとあり、これが「大日月大神(天日月大神・地日月大神)」という御存在に関して、神示をいくら読んでも捉えどころなく感じてしまう大きな理由でしょう。

 

しかし、ここで人間から見た「神々」が、神示によって否定されている訳では全くないことを留意すべきです。

むしろ、「宇宙」そのものを「神」と見るならば、それこそ「汎神論」の世界であり、目に見えない存在も目に見えるものも含めて、「神」となりうることを意味します。

 

「神の道」にあっては「天」も「地」も一つであり、「神界・幽界・現界」を網羅するがゆえに、「立体」の世界となるのです。

これを踏まえると、「神の道」では「生きること」そのものが「芸術活動」であり、「宗教的生活」になると言えるでしょう。

「阿呆」について

「神の光」を曲げて取るから、心に「影」が差して良くないことが起こる、そう日月神示には語られています。

「春の巻・第三十七帖」に、その対処法が述べられている箇所があります。

 

相手、八と出たら二と受けよ、人民と申す者はモノに囚われるから、何事も分からんから、十二と出、二十と出、三十六と出たらポカンとして分からんことになるぞ、十二と出たら一段ケタ上げて八十八と受けよ、また十二と受ける手もあるぞ、二十と出たら八十と和せよ、立体になればそれだけ自由になるのぞ、世界広くなるのぞ、早く立体さとってくれよ」

 

私たちは、思わぬアクシデントが発生した時、「8」と出たことに対して「0」に戻して対応しようとしがちです。

ゆえに「8」と出た時に、「2」と応じて一旦「10」にすれば、少なくとも物事は埋め合わせができることになります。

 

例えば、会社で家に忘れ物をしたことに気づいた時、一旦家に戻ったり言い訳して済まそうとまず考えますが、なかなか別の手段を取ることには思い至らないものです。

こういう時に柔軟な発想を持ち、「臨機応変」に判断を使い分けられるようになれば、突然の「アクシデント」に動揺しすぎることはないでしょう。

 

まして、出た数字を無理やり「0」に戻そうとすれば、また何かを「1」から考え「10」まで積み上げなければならなくなります。

そうすると、わざわざ「0」に巻き戻した分は「取り越し苦労」になってしまいます。

 

私たちが物事を曲げて取りがちな理由の一つに、「」があります。

仮に「5」を「我」とするなら、最初から「5」が積み上がっていると、もし「7」と出た時には「12」となってしまい、想定のキャパを超える恐れがあります。

そして、出た「7」が気に入らず、最初の「5」に戻そうとすれば、却って「0」に戻す場合よりも難しい判断が迫られます。

 

これが「我」があると、物事に「影」が差しやすくなる理由です。

神示に言うには、もし「5」に「7」が合わさり「12」と出れば、「88」で埋め合わせて物事の辻褄が合うとされます。

「引き算」をしないというのも大事ですが、中途半端な位置に戻そうという「欲」が働くのが「我」の特徴と言えます。

 

この最初の「5」は、これまで「善」の努力で積み上げた実力や知識、才覚があるほど崩しがたいものとなるはずです。

阿呆」になるというのは、この「5」を完全に「0」に戻して、これまでの累積をリセットして対応することなのだと思います。

 

「月光の巻・第四十九帖」には、こう述べられています。

「いつでも神かかれるように、神かかっている様に、神かかっていても、我にも他にも分からぬ様になって下されよ、くわ取る百姓が己を忘れ大地を忘れ、鍬を忘れている境地がまことのみたま鎮しずめであり、神かかりであるぞ、そこらでなさる行もそれに至る一つの道ではあるが、それのみではならんぞ、気付け合って、良きに進んで下されよ」

 

仮に農家の方が、自身の畑のことを忘れて農作業すら頭になければ、本当に「阿呆」と呼ばれてしまうでしょう。

普通は「それでどうやって生きていくんだ」と思われてしまうような事態と言えます。

 

しかし、それが「常識」ゆえ普通に考えると「小才」が出てしまい、却って「阿呆」になることが難しくなります。

「神に身を委ねる」とは、この「心配」を自身の積み重ねで埋め合わそうとせず、常に「0」の状態から、どんな数字が出ても受け流すことにあるのではないでしょうか。

 

確かに、起こりうる事態に前のめりで対応しようとするから、私たちには受け入れ難いことも出てきます。

このニュートラルな姿勢こそ「自然」のあり方であり、「過去の累積」に囚われないことこそ、「中今」を生きるということなのかもしれません。

「ミロク」の世とは

「我とわからない我」という「悪」は、本質的に「善」の性質があり「善と悪を鋭く事分ける能力」があるほど、陥りやすい「自縄自縛」の罠と言えます。

なぜなら、「善」の意識が高くあらゆる事象から「悪」を見抜く観察眼があるほど、あえて「善悪」で持ち回るべきでないことまで批判的な見方をしてしまうからです。

 

そして、その動機が「純粋」な善意に基づき、客観的に見ても合理性があるからこそ、「善」の側に改まるべき事柄があることを認識できません。

「神の道」とは平面的な「善悪」を総括する道であるため、この対立軸に対して「喧嘩両成敗」の立場を取る「善」こそが求められるのです。

 

日月神示「海の巻・第二帖」には、「神示を盗む化け物」があると述べられます。

「火の守護から水の守護に変わって居るのであるから、水の蔭には火、火の蔭には水ぞ、この事忘れるなよ、この中には化物いるのだぞ、化物に化かされん様に、お蔭落とさん様に致して下されよ、神くどく気付けおくぞ」

 

この「神示を盗む化け物」とは、「善」の中の「悪」に気づけず、自身の「悪」を見抜けない「誤謬」そのものではないでしょうか。

そして、この「化物」は実際に存在する「悪神」というよりは、「偽」という概念として存在する「神」の働きそのものと言えます。

 

この「誤謬」を放置したままであれば「善」の改心はならず、「悪」に対して一方的に「改心」を求めるだけでは、何一つ変わることはないのでしょう。

これが行き過ぎれば「善の外道」に陥り、「善」が元となり却って「神の道」は閉ざされてしまうのです。

 

「春の巻・第四十三帖」によると、「神の道」から外れた「外道」はいずれ無くなるとされます。

「平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな、神人共に融け合うことぞ、外道でない善と悪と融け合うのぞ、善のみで善ならず、悪のみで悪ならず、外道は夜明け来れば消えてしまうぞ、夜明けの御用大切と申してあろうが、外道の悪殺すでないぞ、抱き参らすから消えるのであるぞ」

 

すなわち、「善悪」共に「改心」に至る「立体」の道こそ「一二三」であり、「善悪なき善」が開かれる道となります。

全ての「悪」を包括するということは、これこそ「善」の大道にして寛容なる「太道」と言えるでしょう。

 

ここに、仏教における「衆生救度」や「慈悲」の心が垣間見えるのは、私だけでしょうか。

「神の道」とは「神道」にして「仏道」と一つになる道とも言え、神示に言う「ミロクの世」とは「菩薩」の心を実地に移すことで、その実践が実を結んだ時代を意味するのかもしれません。

「善の改心」

「善」はもう改まった後なのだから、あえて「改心」する必要がないじゃないか、と思われるかもしれません。

日月神示にある「根の音」からの改心とは、「悪の身魂」となっていた自分の心根に対して、「改心」を求める心にこそ「改心」がなければならないことだと気づきました。

 

「善は善で、改まる必要がない」という考えに実は「慢心」が潜んでおり、「我良し」に繋がってしまうのです。

そもそも、自分の心に「悪」を生み出してしまった原因がある以上、「善」の心にも不足があったことになります。

 

私の話をすれば、世や人やモノ、まして自分という「自分の力では及ばない」ことまで、努力や才覚で何とかできるという思い込みがありました。

世には「努力次第」でどうにかなる部分は確かにありますが、何もかも強引に自分の力でやり切ろうとする考えにこそ、慢心や「取り違え」があったと言えます。

 

自分に鞭打つことの無理押しは、「負の念」を心に沈め、「ゴモク」を腹に溜め込む要因となっていました。

これに気づかず、自分の「悪」となってしまった部分だけを取り除こうとすれば、逆に「負の念」を生み出す原因を見逃してしまうことになります。

 

それが例え「善」の動機でも、物事を曲げてしまえば「純粋さ」や「素直さ」は失われ、却って「悪」となってしまうでしょう。

この始まりが「純粋」なものであり「」と呼べるものであるほど、「悪」を生み出す問題の本質が見えづらくなります。

このことに気づかず「悪」だけを滅しようとすれば、「善」は却って「善の外道」に陥り、「悪」に染まってしまうのです。

 

この誤りは、自分の目的を貫き「自分らしくあろう」、「善良であろう」とするほど陥りやすい「」でもあります。

そこで、「善」と思われていた部分から「悪」が生じていた事実に気づくことこそ、誠の「改心」と呼べるのです。

 

この2ヶ月に及ぶ、心の「大掃除」を通して「我とわからない我」という「悪」は、むしろ「善」の側にこそ潜むということに気づけたのは、本当に幸いと言えます。

「神の道」とは「中行く道」でもあるため、いずれ「善」も改まるべきと頭でわかっても、「善」の内に潜む「悪」こそ改めなければならないということは、本当に「盲点」と言う他ありません。

すべて世はコトもなし

弥栄」とは、魔法の言葉だと思います。

 

善人も悪人も、全ての人の「成長」と幸せを願うのが「弥栄」の心です。

どんな悪人でも、「罪」によって破滅することが「終わり」なのではなく、その先に誰しもまた「生」があり、「成長」があります。

 

あえて大神が「悪」をお産みになられたのだとしたら、その存在や行いには必ず「理由」があるはずです。

どれだけ忌まわしく思えたとしても、目に見えない悪の「本質」を掴まなければ、神の「真意」はわかりかねるでしょう。

 

神が自らのうちに「宇宙」をお造りになられたのならば、私たちが見ているのは神の「肉体」そのものと言えます。

風一つ雲一つ、全てが神の御意志のままに動いており、草も虫もそうなのだとしたら、まして「人間」も神の一部であり、神の御心のままなのでしょう。

 

この世界で私たち人間は、自分の「意志と知恵」さえあれば、何でも自由にできると思ってしまいます。

しかし、何もかも「神」の一部だとしたら、始めるのも「神」だし、行うのも「神」、また終わらせるのも「神」に違いありません。

ゆえに、私たちは「神の御心」とは何なのか、常に気を巡らせる必要があるのです。

 

明治の文豪にも影響を与えた、イギリスの詩人ロバート・ブラウニングは「神、空に知ろしめし、すべて世はことも無し」という有名な詩の一節を残しました。

 

(ブラウニング作「ピッパが通る」より)

「年の春、

一日の朝、

朝は七時、

丘に露おりて、

ひばりがさえずり、

いばらにカタツムリ、

神は天にましまし、

べて世はこともなし。

 

劇詩「ピッパが通る」では、一年に一度の休みを得た機織り娘のピッパが、悪人の蔓延るアーゾロの町を、美しい歌を口ずさみながら朝から晩と練り歩きます。

ある一家では、妻と愛人が欲望の果てに夫を殺し、その死体を前にした時、ピッパの澄んだ歌声が聴こえてきて、改心を決めます。

 

ピッパの純粋な心にこそ、「天」の御心があるのかもしれません。

悪人を「改心」させてしまうような、遍く人々の成長と幸せを願う、そんな心でありたいものです。

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