伊弉諾命の御考え

日本神話で、伊弉諾命が黄泉比良坂で「事戸」を立てられた時、伊奘冉命は「葦原中津国の人草を一日千人締め殺す」と宣言なされました。

対して伊弉諾命は「それなら私は一日に千五百の産屋を建てよう」と告げられました。

 

私は、これが「悪を抱き参らせる」の真意なのではないかと思います。

黄泉の国が葦原中津国に押し寄せる「戦」を終わらせるには、単純に考えれば伊弉諾命の勢力で亡者の軍を滅せば解決するでしょう。

 

しかし伊弉諾命はその手段を取らず、「一日千人」殺されることを容認しつつ、逆に「千五百人産ませる」ことで乗り越える手段を選ばれたのです。

一日に千人が死んでも、人草が一日五百人ずつ増えていけば、「いくら殺しても人民が増え続けてしまう」という事態に、いずれ黄泉の国は直面します。

 

それでは、わざわざ人をコツコツ締め殺すことに大した意味はありません。

それに気づき、黄泉の軍に「諦念」が襲う時こそ、日月神示の天之日月神様が仰られる「悪が抱き参らされる」瞬間が訪れるのではないでしょうか。

 

「悪を滅ぼそう」とすれば、却って戦争によって「亡者」を増やすことになり、それでは黄泉の軍を利することに繋がるため、そう考えただけでも葦原中津国にとって「戦争」は不利な判断です。

伊弉諾命の御考えとは、「欲しい者には敢えて取らせる」ことで、恒久的な解決を志す「肉を斬らせて骨を断つ」類の戦略だったのではないでしょうか。

 

この「戦」は痛みを伴いますが、殲滅戦に至る惨事を避けることができるばかりか、人民に「戦争」の罪を負わせることなく、国を勝利に導くことができるのです。

 

今も「国造り」の神は、そうした御考えで我が国を導いておられる気がしてなりません。

だからこそ「日本」という国は未だ「修理固成(つくりがため)」の最中であり、これから「弥栄の世」を迎えようとしているのではないでしょうか。

神の「政治」

自分の「気」が枯渇するのは、そのエネルギーが自分の汲み上げたものではなく、「神」から与えられた、預けられた有限のものだからです。

つまり「借り物」だから、人にあげたり自分で使ったりすると無くなるのです。

 

私たちの身魂の「・(キ)」は「無=無限」に繋がっているため、借り物ではなく自分のものとして、本来ならこのエネルギーを自由自在に汲み上げることができます。

 

ただでさえ人は「借り物」の霊気で賄っているのに、この「キ」の一切を自分で汲み上げることをせず、完全にアウトソーシングする人がいます。

これが俗に「エナジーヴァンパイア」呼ばれ、他人から気を吸い取り、奪うことで自分の活力に変える人たちのことです。

 

しかし、理論的に言えば「・(ム)」からは無限に「気」を汲み上げることができるのですから、逆にそうした人々に「無際限」に力を提供することもできるでしょう。

疑義が生じそうですが、そうしたことも前提にして「与える」ことに徹するのが、日月神示にある神の政、「与える政治」です。

 

それなら横着者が、ますます依存を強め、寄生することに自信を持つだけだ」と普通は考えます。

まして、「タダ」で貰えるのを良いことに、ますます肥え太ろうとするかもしれません。

 

しかし、この発想こそが「人間心」であり、むしろ神の目線からすれば、これ以上の善政はないようなのです。

ここまで「善」に徹してこそ、「悪は抱き参らされる」のでしょう。

 

逆に考えると、「与えて無くなるもの」は全て「自分のものではない」ということです。

自分のものであって、「無限」に汲み上げてこれるものであれば、いくら与えても「損」にはなりません。

自分は与えることで「嬉し」となり、貰った者も得をして「嬉し」となり、双方が「嬉し嬉し」になるからこそ弥栄えるということなのではないでしょうか。

 

ゆえに、「無限にあるもの」は無際限に与えることができるのです。

これを実践するのが「神の政治」ならば、そのあり方が見えてきそうな気がします。

「弥栄」の文化

メディアにしろ技術にしろ、「新しいジャンル」が誕生した時には勢いがあるものです。

 

草創期には探究心と好奇心が刺激され、新規参入者による数多の「実験」が起こり、文化の隆盛が始まります。

技術や需要が定着するとジャンルが大衆化し、経済を巻き込んだシステマチックな商業化が進行します。

ジャンルが成熟するにつれ産業構造が「固定化」され、ジャンル全体が政治的にコントロールされるようになり、文化の「退廃」が始まります。

 

こうした「文化のサイクル」について、列記とした研究はなされているでしょうが、私が思うに、現在があらゆる文化の「退廃期」と呼べるかもしれません。

 

2030年代以降の文化は、この「退廃期」からの移行から始まると思います。

私が想像するのは「中小事業者の濫立」であり、産業構造の「多極化」です。

 

既にあらゆるジャンルが成熟し、むしろ飽和状態とも言えるのですが、そこから「独自性」というアプローチにより、複雑系への進化が起こるのではないかと考えています。

 

「音楽」というジャンルは、数十個の音階と数百種類のコード進行、リズム、数えられる限りの楽器で成り立っていますが、その創作者や演者次第で「無限」に近い広がりを持っています。

音楽が決して多くはない要素から、現在でもこれだけ多彩な作品が生まれているのですから、それ以外のあらゆるジャンルは遥かに広がりを持つ可能性があるのです。

 

私は、次の時代からは「一子相伝」のような特殊技術を伴って、こうしたジャンル開拓が連綿と続くサイクルに入る気がします。

なぜなら、「オリジナリティ」の追求は独自技術に行き着き、その再現には技能継承が最適解になるからです。

 

これはどちらかと言えば「伝統芸能」に見られるサイクルであり、これこそ「永遠」の時代である、「弥栄の世」に相応しい文化のあり方ではないかと思います。

私たちのできる「祓い清め」

私は、これまでの人生で「コテンパン」という表現に相応しい体験をいくつかしました。

もちろん、今では自分が悪かったこともわかりますし、こんな私をここまで育ててくれた社会にも感謝しています。

 

「禊祓祝詞」や「大祓詞」にある「罪穢れの祓い清め」とは、私たちが生きていく中で犯す過ちを、文字通り「水に流す」ことなのかもしれません。

人にされた迷惑、自分が行った過ち、どちらも「自分も悪かった」「他に原因があった」などと反省し、許し合い和解することで「罪穢れ」が浄化されていくとしたら、私たちは日常生活の中で「祓い清め」をしているとも言えます。

 

動物は、そうした出来事を「忘れる」ことで流し、許しを行います。

しかし人間は「」の働きで、自ら人の過ちを許すことができるのです。

 

これこそ、人が「神様」たる由縁であり、「罪穢れ」に対して人が行うことのできる「祓い清め」なのかもしれません。

「結果オーライ」の世界

この宇宙は「学び」のために用意された世界という話をしてきました。

そもそも神々が「地」の世界をお造りになられる以前、「天の世界」にあったのは「光」のみ、言ってみれば「白一色」の清潔な世界と考えられます。

 

おそらく「平和」で皆が仲良く暮らすだけでは、「天国」には全く進歩がなかったのではないでしょうか。

そのため、あらゆる色彩が混ざり限りなく「」に近い、澱んだ色とりどりの世界を改めて造り直されたのでしょう。

それが現界を含む「地の霊界」であり、天から見れば「逆さま」の世界です。

 

この地上世界を司る霊人は、「肉体」を持つ人間です。

この世の「神」は人間であり、天の神々が干渉するにしても、神界の法則「フトマニ」に従わねばならず、おそらく神ですら勝手の効かない世界にあります。

ゆえに、天界では「全知全能」の神々であっても、この地上世界においては制約があり、神々はこの不自由を「学び」の礎とされているのではないでしょうか。

 

これまでの歴史で紡がれた、あらゆる惨事や戦争による非道ですら、宇宙にとって「学び」の一言に尽きるのだとしたら、神の次元には底知れぬものを感じます。

しかし、その暗黒史ですら「弥栄」の礎であり、3000年続いた現在の「闇の世」も、またそうなのでしょう。

 

私の感じるところ、神様は「一旦汚しきって磨きをかける」というやり方を採用なされているようです。

だからこそ、人間世界が一度「悪の世に染まる」ところまで持っていく必要があったのだと思います。

 

戦争は世界に蔓延り、強権が世を支配し、地球は散々に汚され、まるで救いがないように見えますが、これこそ後の世界のために用意された「段階」と言えるのです。

神々は「永遠の立場」から物事を見ておられるため、「過程」に「結果」を求めないのでしょう。

 

つまり、天の神々は「汚しきって磨き抜かれた世」をご覧になられており、その実現のために今日の御働きがあると考えられます。

 

私たちの人生も似たようなものですが、一時の成功が「ゴール」なのではありません。

長い目で見れば全て「過程」に過ぎず、どこを「結果」として切り取るかで印象は変わります。

 

おそらく天から見れば、全てが「結果オーライ」なのでしょう。

ただ神々だから「永遠の立場」にあるのであって、たかたが数十年生きるだけの人間には、そのスケールでものを見ることができないだけなのではないでしょうか。

 

だからこそ、私たち人間の目から見た世界に捉われることなく、より高い視座で物事を見る必要があるのだと思います。

いるもの、いらないもの

昨日6月1日まで、占星術的には「満月」の影響が続いていましたが、やはり今日になって体感が変わりました。

それは「上昇気流」のエネルギーが切り替わったためで、この「射手座満月」から当面は「取捨選択」の期間に入ると思われます。

 

ここに来て「何でもなかった家電が急に壊れた」とか、「突然知り合いと別れることになった」ようなことがあるとしたら、天からの「手放し」が入ったと考えて良いでしょう。

私も数日前、部屋のTVが壊れてゲームが出来なくなってしまったのですが、これを素直に受け入れ、買い替えや修理も考えないことにしました。

 

また、これまで追ってきたジャンルも「もう良いかな」と感じたり、改めて見て「何か違うな」と感じ、興味が薄れることがあるかもしれません。

これは、「波長」が変わった後の自分にとって、「学びを終えた」対象に変わったことを示しています。

 

こうして人は、自分の「波長」に合わせて生き方を変えていくのですが、これを「成長」と呼ぶこともできます。

だから、「ここまでやってきたんだから」と変に持ち続けようとせず、あえて「断捨離」してみると良いかもしれません。

 

この時期に天から「手放し」が入るということは、「この後の人生には不要である」という意味でもあるでしょう。

もちろん、エアコンや冷蔵庫が壊れてそのままにすることはできないと思いますが、改めて家電を買おうにも、今の製品は「10年持てば良い」程度のものなので、特に頓着するものでもないかもしれません。

 

「手放し」とは、捨てた後にできる「空間」こそ、これからの人生で必要になるという意味ではないでしょうか。

新しくできた「空間」に何を置こうか、置いた先で何をしようか。

その「取捨選択」こそ、新しい人生をもたらすきっかけになるのかもしれません。

「オセロ」

おそらく、現時点で天から見れば「釦(ボタン)」一つで世をひっくり返す盤面は揃っているのだと思います。

 

オセロに喩えると、すぐに「黒」を白一面に変えることができるということです。

しかし、まだ盤目には「白」が全く揃っておらず、早々に「黒」をひっくり返してしまうと、空の盤目が「黒」で埋まる恐れがあるのだと思います。

 

これが「建て替え」が起こる時に、「タテ直し」が「タテ壊し」より先に進んでおかなければいけない理由です。

 

ここで「オセロ」に喩えましたが、「白黒」と表現するのに抵抗を感じる方がおられるかもしれません。

世には「白黒分けるのは差別、全て濃淡が均一である”灰色”である方が望ましい」という風潮があります。

 

世には実際に「白黒」ではなく、赤や黄や茶など色とりどりの石があるはずですが、「全体主義」は何なら「白一色が美しい」と考え、白黒に言い換えると「均質な灰色」であることを望むのです。

 

このことは、まだ私たち現代人にとって、「平等」という概念が「同調圧力」や「出る杭は打たれる」社会を形成するだけの理念に留まっている証左ではないでしょうか。

日月神示では、これを「悪平等」であると指摘しています。

 

「オセロ」の盤面をひっくり返すということは、「悪平等の世」をすげ替えるということであり、「白一面」にした後は「それぞれ好きな色を置いて良い」社会にすることだと思います。

皆違って皆良い」ということがコンセンサスになるくらいでなければ、真に「平等」の世は実現しません。

 

だからこそ、今は盤目を埋められるだけの「白」を揃える必要があるのだと思います。

文明の「転換点」

どうも最近、グローバル政治を牽引してきた「WEF(世界経済フォーラム)」や「気候変動政府間パネル」が、著しい方針転換を迫られているようです。

 

近代文明は、やはり「終焉」に向かっているのではないでしょうか。

宇宙が「学び」のために存在するならば、「一応やってみたけど何にもならなかった」「一時は良いと思ったけどダメだった」という成長に必須な教訓を、この数百年で人類が揃って経験しただけなのかもしれません。

 

おそらく、この「学び」を認識するきっかけが「2029年」になるのだと思います。

そこで起こる意識変化から、あらゆる物事が根本的に見直され始め、最終的には「シンプル・イズ・ベスト(元の鞘に収まる)」という結論に落ち着くのではないでしょうか。

 

「技術革新」というブームに踊らされ、散々いじり回された社会や地球環境は、およそ200年くらい掛けて「修正」されていくと思います。

特に「地球」の浄化に関しては、人間が「不利益」と向き合いながらも、現状復帰に向けた奉仕が始まっていく気がします。

 

ただ、これを期に文明が「後退」することはまず考えられません。

既存の「特許技術」や「知的財産」まで消失するわけではありませんし、技術の方向性を変えるだけで、現代とはまた違った科学文明になることは十分可能だからです。

 

ともかく「利益追求」型の文明が持続不可能な発展に至ったことの反省が、次の文明の「」になるとすれば問題ありません。

やはり、これも宇宙の「弥栄」の仕組みの一部であり、全て「神々のシナリオ」としか考えられないのです。

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